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母校が教えてくれた「前へ」進む精神

卒業生の活躍

母校が教えてくれた「前へ」進む精神

2006年に商学部を卒業した佐藤麻季子です。私は、1912年に曽祖父が創業し、祖父、父と継承してきた家業である帽子メーカーの四代目です。今回は、私自身の子ども時代から現在に至るまでの道のり、そして、帽子作りに対する特別な思いについてお伝えしたいと思います。

小学生から高校生までの私は、部活に入ってもすぐに退部し、勉学に励むわけでもなければ趣味もない、何に対してもやる気を出せない子供でした。小学生の頃の記憶といえば、友達と遊んだ日々ではなく、元日にカレンダーを見て、「あと364日も生きなきゃいけないのか…」と、特に苦労も経験していないのに普通に生活することがなんとなく億劫に感じていたことです。

ただ、心の片隅では、部活に励む友人や、一生懸命に働く両親のように、何かに情熱を注げる人を羨ましく思っている自分がいました。

大学デビュー、新しい自分に変わるための挑戦

明治大学への入学を機に、今までとは異なる新しい自分になりたいと思い、心機一転、学校やアルバイト、サークルに積極的に参加しました。しかし、自分を変えたい気持ちが強すぎて、大きな変化が起こらないまま学生生活が終わるのではないかという不安に襲われたのです。

そこで、1年生の終わりごろに、明治大学でしか得られない経験を通して自分を変えようと決意し、明治大学ラグビー部への入部(マネージャーとして)を希望しました。ラグビー自体に興味はなかったものの、自分を最も鍛えられる環境だと感じての希望でした。

当時のラグビー部は創部78年まで女性マネージャーは一人もおらず、女性を募集しない数少ない大学スポーツ部でした。しかし、募集されていないことが私にとっては自分を試す絶好の機会だと感じ、面接を志願したのです。そして、3回の面接を経て、ようやく入部が叶ったのです。

ラグビー部内での役割は、経理や総務などの裏方の仕事に従事していたため、部員との接点がほとんどありません。加えて、女性禁制が根付いていることもあり、部員から話しかけられることもありませんでした。

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地方遠征の際に、手配したバスが遅れるなどトラブルが起こった時だけ、文句というコミュニケーションが生まれます。何事もスムーズに進むことが当たり前の状況のため、感謝はなく、文句を言われるだけの状況に、誰のために時間を割いているのだろうと時として頭をかしげたくなることもありました。しかし、元々は自分でやりたいと決断したことを思い出し、覚悟を決めて最後までやり遂げました(何かをやりきる経験は初!)。

選手たちは私とは異なり、強豪校である明治に入るまでに多くの努力を重ねてきました。そのため、明治の部員としての責任とプライドを持っています。彼らが築き上げてきた世界に触れ、大切なことを学べたことに今も感謝をしています。

また、学生スポーツであるにもかかわらず、国立競技場を使用できるだけの人気と集客力を持つ部活は、そう多くはありません。これは伝統校が築いてきた歴史の成果です。私たちは部員の父兄や全国各地のOB・OG、そしてラグビーファンの方々、ラグビー協会など、多くの社会人と交流を持ちました。

異なる立場や年代の方々とも自然にコミュニケーションを取ることができるようになり、それが後の社会人生活の基盤となったことは言うまでもありません。

卒業後、突然訪れた転機

大学を卒業後、第一志望の大手メーカーに就職。希望の部署に配属され、順風満帆な社会人生活を送っていました。そんな時、母親から、父親が経営する会社が取引先の減少や業績の悪化で苦しんでいることを聞き、私は半年も経たないうちに、帽子製造業を営む家業に転職することを決意したのです。

全く異なる業界への転職で、しかも入社からわずか1年で代表取締役に就任です。しかし、父親は昔気質の「背中を見て学べ」タイプで、細かな指導してはくれません。「やってみればわかる」「自分も教わってこなかった」が口癖で、そこから話は進まず、悩む日々でした。

父親と一緒に仕事をしている間にもっと学ぼうと思って、早めに会社を継いだのにと、不満を抱える日々です。しかし、当社は100年以上もの歴史を持つ代々続く会社であり、父親である経営者から学ぶべきことは、長期的な経営戦略や哲学を学ぶことだとふと気づいたのです。

和歌山工場での作業風景

そのため、実務については、専門の先生や事務局、書籍やインターネットを活用して、経理、労務、人事など、日々の業務をこなしながら学びました。また、縫製や帽子に関しては、以前の職場で培った営業経験を活かし、様々な工場を訪れて現場を見学し、知識を身に付けていったのです。

海外向けでは、新しい素材を見つけて、お客様に合ったサンプル品を提案するなど、着実に学びながら販路を広げ、業績を伸ばしてきました。残念ながら、この業界では新規参入がほとんどないので、新しいアイディアが生まれにくい状況です。だからこそ、逆にやり方次第でチャンスがつかめると思い、積極的に提案していきました。

一方で、自社工場の生産状況は、2011年の東日本大震災により閉鎖を余儀なくされ、関東近郊にいる高齢の職人による生産が頼みでした。周囲の同業者も職人の高齢化などが原因で廃業が相次いでおり、日本の帽子業界が消滅の危機に瀕していると感じていました。

人員確保や設備投資はハードルが高く、頭を悩ませる問題が並ぶ中、以前から一部の生産を委託していた工場が廃業するという知らせが届きました。私はすぐに事業譲渡を申し出ました。安定した生産基盤を確保したことで、次のステップに進めると思ったのも束の間、半年後に新型コロナウイルスの蔓延により、休業を余儀なくされたのです。

社内での一コマ

絶望から、「前へ」という言葉に励まされて立ち向かう

増員した社員を雇い続けられるのかという不安や、業績の回復見込めない焦りが2年間続いた後、私は舌がんの宣告を受けました。それは奇しくもがん患者の方向けの帽子ブランドを立ち上げようと始動した矢先のことでした。

これまでにもいろいろな困難に立ち向かってきましたが、がん宣告は今まで経験したことのない恐怖に襲われる衝撃的な出来事でした。しかし、この病から学んだことのひとつは、明治大学の精神が人生を歩む上でいかに大切なことか、ということでした。

正直に言うと、学生時代、私は明治大学ラグビー部の北島忠治監督の有名な「前へ」という言葉は、ラグビー選手でない自分にはどこか関係ない言葉だと感じていましたが、がんと診断され不安になっていた時、OBから「明治だったら“前へ”!」と言葉をかけられました。何も状況は変わっていないのに、この「前へ」というワンメッセージが、立ち向かう気持ちへ切り替わったことを今でも覚えています。

舌の一部を切除した後、数か月間は話すことができませんでしたが、お客様には知らせずに仕事を続けました。同時に、以前から取り組みたいと思っていたがん患者の方向けの帽子ブランドを立ち上げる目標に向かって、これまで以上に精力的に取り組み、そして今につながっています。

今後も、シーンを選ばず包み込むような心地よさとともに、「容姿が心に与える影響を帽子で明るくサポートしたい」をコンセプトに邁進していきたいと思います。

学生の皆さんへのメッセージ

窮地に追い込まれていない時は、私の様に「前へ」の意味を心底理解が出来なくて当然だと思います。ただ、これからの人生において、困難や課題に直面する機会が訪れることもあるでしょう。どんな時でも「前へ」の精神で突き進むことができるような底力を明治大学で学び、身につけておくとよいかもしれません。

2006年(2005年度)
商学部卒業
佐藤 麻季子

公式サイト:CHANVRE MAKI
https://www.chanvremaki.com/