これであなたも明大博士!身近に存在する母校の歴史を紹介!
明治大学の歴史に関するトリヴィア集
明治大学は、校友の皆さんには、卒業後も母校愛を持った「生涯の明大ファン」として社会で活躍していただきたいと考えています。そのために、2031年1月17日に創立150周年を迎える母校の歴史や由来などに触れることをきっかけとして、学生時代に戻った気持ちで、母校に興味を持っていただく機会としていただければ幸いです。
在学中には、ここまで母校の歴史に触れる機会がなく、「知らなかった。」という方が多いのではないでしょうか。改めて母校の歴史に関わるこれらのトリヴィアを読んでみて新たな気づきがあれば、遠慮なく「へぇ!」という声を上げてください。(笑)
そして、その新たな気づきの内容を、例えば明大人同士の共通の話題としてご活用ください。また、これらのトリヴィアを一つずつ理解していけば、いずれは自己責任で?「明大博士」を名乗ることができる日が到来するかもしれません。
明大生を始め、校友の皆さんもご存じのとおり、明治大学は、その前身である明治法律学校が有楽町の数寄屋橋に開校(1881年1月17日)して以来、現在まで実に約143年という歴史を刻んでいます。
その歴史の長さはもちろんのこと、創立者である岸本辰雄、宮城浩蔵、矢代 操の3先生の、明治維新により新たな時代を迎えた我が国における優秀な法曹の育成への熱い思いを基にした明治法律学校での教育活動を出発点として、その後多くの後進の明大人によって、その活動が継承されており、換言すれば同校開校以来、現在までの一日一日のその営みの積み重ねのすべてが、明治大学の歴史そのものと言えます。
その中でも、あまり知られていない興味深いトリヴィアをご紹介します。
明治法律学校の開校及びその後のキャンパス移転について
1 明治法律学校の名前の由来は、元号【明治】ではなかった?
明治法律学校の名前の由来は?と問われたら、「開校時の元号が【明治】だったから」と思っている方が多いと思います。この答えは間違いとは言い切れませんが、正答とするには不十分です。
1880年12月8日に、「明治法律学校設立上申書」とともに東京府に提出された「明治法律学校設立の趣旨(趣意書)」によると、次のように記載されています。【現代語訳・抜粋】
「・・・同心協力して一つの学校を設立し、まさに一般の人々と協力して、大いに法の道理を講究し、その眞諦(しんたい:究極の真実)を拡張しようと思っている。これを名付けて明治法律学校という。これは私的に聖徳の高い天皇に遭遇した喜びを表したもので・・・。」
よって校名の「明治」は、元号というよりは、徳の高い「明治天皇」の時代を生きる喜びを称えて付けられたものです。この校名の由来を理解することは、明大人にとってとても重要です。
2 明治大学の発祥の地(明治法律学校の開校地)は、開校直前までなかなか決まらなかった!
前述の「明治法律学校設立上申書」の段階の開校地(予定)は、何と「東京府麹町区上六番町36番地(現 東京都千代田区三番町16番地 東郷元帥記念公園の一角)の宮城浩蔵宅でした。
これは、開校1か月前にも関わらず、正式な開校地が決定していなかったためであり、その後、交渉の結果、東京府への移転届の提出により、麹町区有楽町三丁目一番地(現 千代田区有楽町2丁目2番地の北側:ヒューリックスクエア東京付近)の数寄屋橋の、「旧島原藩上屋敷(松平忠和邸)」内「三楽舎跡」を校舎(数寄屋橋キャンパス)として借り受けて開校しました。
この開校地の決定交渉については、創立者のほかに、明治法律学校の開校に関わった「最初の学生兼事務職員」でもある斎藤孝治の尽力が大きく、東京府への開学届は、斎藤の氏名で提出されています。
因みに、この開校地については、開校後長い間特定に至ることがありませんでしたが、創立114年を経過した1995年11月2日に、ようやく開校地付近に「明治大学発祥の地記念碑 明治大学発祥の地 | 明治大学 (meiji.ac.jp) が建立されました(都心の有楽町でも一等地にあります)。
また、島原藩主(松平忠和)は、第15代将軍 徳川慶喜の実弟であり、島原藩は,その家禄(15, 000石)に応じ,江戸に上屋敷(約4,000坪)と三田の中屋敷(約11,000坪)を拝領していました。その後,1871年の「版籍奉還」によって,中屋敷は明治政府に献納されたが,その後,慶応義塾の校地(三田キャンパス)となっており、明治大学と慶應義塾大学の校地には、このような縁があります。
1881年 開校当初の明治法律学校(数寄屋橋キャンパス)想像図
※開校時の写真は1枚も現存せず、創立70周年のときに想像図として作成させたもの
3 明治法律学校は、なぜ「数寄屋橋キャンパス」を開設することになったのか?
理由としては、4つあったようです。
(1)旧島原藩邸があった有楽町は江戸時代、「大名小路」と称されるほど大名屋敷が集中していたこともあり、所有者の一部は、明治政府からの接収を免れた屋敷で、賃料を取って「貸間業」を行っていた。
(2)多くの学生を一堂に集めて授業を行うには、大広間のある武家屋敷は、格好の施設であった。
(3)創立者を含めた創立時の講師は、専任ではなく、日中は官庁を中心とした官庁や他校で別の仕事をもっていたため、有楽町は、司法省を始めとする官庁街に至近で都合がよかった。
(授業時間 7:30~8:30、15:30~16:30、18:00~19:00の3時限制)
(4) 居室の多い旧島原藩邸を、教場としてだけでなく、地方出身者向けの寄宿舎として利用
といったことを考えていたと思われます。
京王電気軌道 沿線案内図 昭和初期頃 「松原」駅付近に明治大学和泉キャンパスが大きく描かれている。
(この案内図が配布された時期には、和泉キャンパスは未竣工だった。)
「火薬庫前」駅から改称された「松原駅」と「西松原駅」の位置図 【国土地理院の地図上に表示】
「明大前」駅のルーツは「火薬庫前」駅という物騒な駅名だった!
和泉キャンパスに通学するほとんどの明大生が乗り降りしている最寄駅は、言わずと知れた京王電鉄京王線・井の頭線「明大前」駅ですが、この駅のルーツは、「火薬庫前」駅という何とも物騒な駅名だったという歴史を知っている人はまだそれほど多くないのではないでしょうか。
京王電鉄の前身である「京王電気軌道」は、1913(大正2)年4月、笹塚・調布間の軌道路線を開通させ、その際に「火薬庫前」駅が開業しました。この駅名は、付近に「陸軍省和泉新田火薬庫」が所在していたことから名付けられました。因みにこの火薬庫は、江戸時代に整備された五街道の一つである甲州街道沿いに、江戸幕府により1750(宝暦)年代に設置された「和泉新田御塩硝蔵(いずみしんでんごえんしょうぐら):鉄砲・火薬の貯蔵庫」がその起源です。
この火薬庫こそが、現在の和泉キャンパスとこれに隣接する築地本願寺和田堀廟所の前身の地なのです。このように開業した「火薬庫前」駅ですが、開業時は駅の位置が現在の「明大前」駅より約300mも「下高井戸」駅寄りだったとのことです。その後、軍事施設の場所を駅名とすることの是非が見直されたのか、「火薬庫前」駅は1917(大正6)年、地元の村名である「松原」駅に改称されました。(※現:東急電鉄世田谷線「松原」駅とは別駅)
その後、明治大学では、1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災による校舎の被災、1925(大正14)年 政治経済学部・1929(昭和4)年専門部女子部(短期大学の前身)の新設等により、駿河台キャンパスの教室不足の深刻さが増していました。
このような状況の下、学内での予科移転の検討の結果、1930(昭和5)年2月の商議員会(現:評議員会)での「予科校舎用地買収決議」を経て、1934(昭和9)年3月、「同火薬庫跡地(和田町和泉):約43,000㎡」に、予科独自の新校舎(総延坪数約1,500坪、鉄筋コンクリート3階建・一部木造)の竣工なった和泉キャンパスが開設され、同年4月から授業が開始されました。(和泉キャンパス開設当時の教員数は67名、学生総数1,502名でした。)
この予科移転の決定に貢献したのが、当時京王電気軌道の社長(実質的な創業者)であった「井上篤太郎」が明治法律学校に学んだ校友だったことと言われており、同氏は1934(昭和9)年に、明治大学専務(財務)理事に就任し、母校の経営にも参画しました。
1935(昭和10)年3月の共同使用開始当時
別会社の路線だった帝都電鉄と京王電気軌道の「明大前」駅のホーム
一方、京王電鉄井の頭線の前身は、1933(昭和8)年8月に、渋谷・井の頭公園間の路線を開通(翌年4月、吉祥寺まで全線開通)させた「帝都電鉄」です。因みに帝都電鉄の渋谷・吉祥寺間を開通させたのは、当時帝都電鉄の社長であった、小田原急行鉄道(現:小田急電鉄)の創業者でもある明治法律学校出身の「利光鶴松」です。
「帝都電鉄」は元々、小田原急行鉄道とルーツを同じくする会社であり、1940(昭和15)年5月、小田原急行鉄道に合併され、「小田原急行鉄道帝都線」となった。「帝都電鉄」の開業時には、現在の「明大前」駅とほぼ同じ位置に「西松原」駅が開業した。「西松原」駅は、渋谷寄りの隣駅である「東松原」駅に対応して名付けられたものですが、この時期には、それぞれが別会社の路線だったこともあり、まだ、京王電気軌道と帝都電鉄との接続駅は設置されていなかったため、「松原」駅の東側に「西松原」駅が設置されるという不思議な現象が生じました。
前述のような二人の明治法律学校出身者の尽力もあり、1934(昭和9)年4月からの和泉キャンパスでの授業開始に伴い、通学する明大生への便宜を図るため、京王電気軌道「松原」駅を帝都電鉄「西松原」駅に移設して、翌1935(昭和10)年2月、駅名を「明大前」駅に改称し、同年3月から共同使用を開始しました。このような過程を経て誕生した「明大前」駅は、現在に至るまで数えきれないほど多くの明大生が通学で利用しています。
因みに東京6大学の中で、大学の最寄り駅の駅名に「当該大学名」が使用されているのは、「明大」と「東大」だけであるという事実も興味深いものです。
参 考 資 料
- 明治大学の歴史 明治大学史資料センター編(2017年)
- 私学の誕生 -明治大学の3人の創立者- 明治大学資料センター編(2015年)
- 図録 明治大学百年 明治大学編(1980年)
- 京王電気軌道沿線案内図、京王電気軌道株式会社三十年史(1941年)
※注 この記事の他、本学の歴史・由来については、明治大学大学史資料センター 「白雲なびく~遥かなる明大山脈~」に多くのコラムを掲出していますので、こちらもご参照ください。
参考サイト
明治大学史資料センター
白雲なびく~遥かなる明大山脈~ | 明治大学 (meiji.ac.jp)