断ち切れ「貧困の負の連鎖」!これが私のミッション!
1992年に商学部を卒業した中村八千代です。私は、現在、特定非営利活動法人ユニカセ・ジャパンの理事長として、日本とフィリピンで青少年育成事業を通じた社会貢献活動に取り組んでいます。私がこのような活動をするようになったきっかけを、大学時代からの様々な経験を振り返りながら、お伝えしたいと思います。
試練を乗り越え、人生の宝物を手に入れた大学生活
大学時代の4年間は、勉学だけでなく、「人生の意味」を学ぶ大切な時期でした。最初に明治大学短期大学に入学しましたが、その時点で明治大学商学部への編入を目指していました。そのため、1年生の夏休みが終わる頃には、短大のゼミ入室試験の勉強を始めました。
しかし、その直後に母の癌が再発し、余命3か月と告げられたのです。父と相談した結果、母には告知をしないことになりましたが、その選択は、真実を隠す辛い日々の始まりでした。母の前では決して涙を見せないと決意しましたが、「きっとよくなるから」と母に言うたびに、涙がこぼれそうになるのを必死で堪えました。
一番の理解者でいてくれた母
余命宣告から7か月間、母は驚くほど元気でしたが、突如、日に日に体が弱り始めました。病院に泊まり込んで母の看病を続けましたが、自分の最期を悟ったように、「お父さんの再婚を許してあげてね」「お父さんの母校に編入してね」と残し、天国へと旅立ちました。大好きな母を失ったショックで、右側の前髪が一気に白髪になり、1か月以上廃人のような状態でした。
そんな中、私と同じ編入を目指していた友人たちが、試験勉強が始まっていたにもかかわらず、毎日毎日、交代で私の家まで訪ねてきて、授業のノートを見せながら寄り添ってくれました。一時は、短大も中退しようかと悩んだほどでしたが、試験勉強を再開し、母の遺言通り、なんとか明治大学商学部に編入することができました。
あの頃、何度も心が折れそうになりましたが、明治での出会いから30年以上の時を経て、今でも交流している大切な「真友(あえてこの漢字を使います)たち」や先輩、後輩たちに支えていただいたお陰で、「生きる」という選択ができた私がいます。
明治大学で出会った真友
明治大学商学部では、恩師である澤内隆志先生にマーケティングを学び、澤内ゼミの素晴らしい仲間たちに出会うことができました。当時はまだ携帯もパソコンも普及していない時代で、毎日顔を合わせて話し合い、一緒に論文をまとめた日々が、人生の貴重な思い出であり宝物となっています。
私の20代には、家族という大切な存在を失う悪夢のような出来事が起こりましたが、そんな中でも明治大学で素晴らしい恩師やかけがえのない仲間と出会い、前に進むことができました。「前へ!」という言葉は、どんな逆境においても一歩踏み出す力を与え続けてくれます。
突然の借金地獄を奇跡的に脱出し、念願の挑戦へ
カナダ留学で、ホストファミリーと
大学を卒業して2年間のカナダ留学を終えて帰国後、母親が経営していた酒販店を突然任されました。お店を軌道に乗せるため、仕事に追われる日々を送っていたとき、今度はバブル崩壊のあおりを受け、父の会社が倒産。その時、父の数十億円もの借金と共に、私自身がその一部(4億円)の連帯保証人となっていたことが発覚したのです。
周りからは「自己破産した方がいい」と言われましたが、「自分で作った借金ではないのに、なぜ、自己破産しなければならないのか…」と悶々と悩んだ末、返済する道を選びました。それは、毎月120万円返済の80年ローンという地獄のような生活で、当時、26歳だった私は、110歳になるまで借金を返済していくことになったのです。
お店の経営と借金返済に追われ、休みなしの日々が続きました。財布の中には100円しか入っておらず、伯母に手料理を恵んでもらい、賞味期限切れのパンやおにぎりで空腹をしのぐ生活が半年間も続きました。過労で倒れることが何度もありましたが、徐々に売上も伸び、30歳になったときには年商3億円を達成し、ようやく黒字に転じることができました。
しかし、「お金」「お金」という日々を過ごしてきた4年間で、身も心も疲れ切ってしまい、限界を感じた私は、返済のためのテナント収入を確保し、お店を黒字化できたこともあり、酒販店を閉店することにしました。
ようやく自分を見つめなおし、本当にやりたいことを考える機会を得た私は、知人から紹介された児童養護施設でのボランティア活動を通じて、子どもたちとの時間を過ごすようになりました。
そんな中、2001年9月11日にアメリカ同時多発テロが発生。この出来事をきっかけに、テロリストを生み出す社会構造に問題があると考えるようになり、国際的な緊急医療援助団体である「国境なき医師団日本(以下、MSF)」の東京事務局で働くことにしたのです。
NGO職員として働く一方で、毎月120万円の返済を続け、その間に確保した物件を任意売却して、奇跡的に借金返済を終了することができました。かかった期間は10年。すぐに、MSFから独立した「国境なき子どもたち(以下、KnK)」の同僚スタッフに報告すると、「フィリピンの貧困地域に行ってくれないか」と依頼され、即決。借金返済終了の1時間後には、フィリピン派遣が決まりました。借金地獄から解放され、36歳にして念願の海外で働くという夢が叶ったのです!
フィリピンの貧困地域での活動を通してやるべきことが明確に
2006年にフィリピンへ赴任して1週間後、KnKが支援していた少年が事件に巻き込まれ命を落としたと連絡が入りました。MSF時代も、現場からの報告に心を痛めることがよくありましたが、この事件には、これまで経験したことのない憤りや深い悲しみを覚え、身近な人や関係者が命を落とすという現実を受け入れるのに時間がかかりました。
その後も、複数の子どもたちが様々な理由で命を落とし、救えたはずの命がいくつも失われ、現場の厳しさを何度も痛感させられました。貧困の中で、ストリートチルドレンや人身売買の被害にあう子どもたち、そして青少年たちが社会の犠牲になるという現実がそこにはありました。
特に、マニラ首都圏では貧富の格差や学歴社会が顕著で、学校に行けない子どもたちに教育支援を提供して初等教育を終わらせても、仕事に就くことが困難で、再び貧困に陥るケースが多いのです。
もちろん、幼い子どもたちの教育や生活支援は必要です。しかし、彼らの将来も考慮して、「貧困の負の連鎖」を断ち切るためには、NGOの支援を受けた青少年たちが仕事に就き、社会の一員として働いて所得を得ることが必要だと考えました。
このようなニーズに応えるために、ビジネススキルトレーニングなどの実践的な研修を提供しながら、お金を稼ぐための事業運営も行うソーシャルビジネスの立ち上げへとつながっていったのです。
貧困課題に取り組むため、NGOスタッフとしてフィリピンに派遣された時